はじめまして!
かわっちと申します。
私は、以前は扶養内で調整して働く主婦でした。
仕事に邁進すれば、育児に充てる時間と気力が減り、
育児に専念すれば、収入が減ってしまう。
子供を育てることと働くことがトレードオフになってしまう、今日の日本。
私はその環境に、悶々とした思いを抱えていました。
そこから、育児も仕事も両立した働き方を模索するため、在宅で起業し、3年たった現在では子供との時間も大切にしながら、安定した収入を得られるようになりました。
その経験をもとに、同じ状況で悩む方に、有益な情報をお届けできないかとこのブログを立ち上げました。
基本情報
名前:かわっち
性別:女性
年齢:30代後半
出身:九州の山奥
家族:夫と2人の息子と4人暮らし
好きな言葉:少欲知足
趣味:カフェ、マンガ、サウナ
フリーランスとして中小企業向けに、事務サポート、WEBサイト更新、SNS発信などの企画・広報のサポートをしています。
フリーランスとして活動させていただく中で、WEBマーケティングの知識があれば、もっとクライアントさんのためになると強く感じ、現在は仕事をしながらWEBマーケティングスクールで勉強をしています。
幼少期~中学生時代:男尊女卑の閉鎖的な環境
幼少期
私は九州の山奥の出身です。
小学校まで徒歩1時間、コンビニまでも車の距離。
時々、イノシシやサルが山から降りてくる・・・
そんな環境で育ちました。
のどかで暮らしやすい反面、大人の娯楽といえばパチンコくらいしかなく、どこに出るのもとても時間がかかり、
子供ながらに、とても閉鎖的な空気を感じていました。
そして、私の母は男尊女卑の考えを強く持った人でした。
- 女は男より優秀ではいけない。
- 女は一生地元から出てはいけない。
- 子供を保育園に預ける人は愛情がない。
- 勉強ができる女は嫌味で可愛くない。
- 女は上座に座ってはいけない。
そういったメッセージを強く母から受けて育ちました。
私には弟がいるのですが、成人しても私は弟よりも下座に座るのが家族内のお約束でしたし、
食事が出るのも男性が先、女性はその後、というのが当たり前の家庭でした。
(驚くなかれ。これ、平成の話ですよ。)
しかし、これを当たり前のこととして、私は完全に受け入れてしまっていました。
小学生から中学生
娯楽もなく、当時はスマホもない時代だったので、私は勉強ばかりしている子供でした。
本当に他にすることがなかったんです。
ちなみに田舎で塾なんかもありませんから、学校で配られた教科書と参考書だけで勉強していました。
やることがないと、子供って勉強するか荒れるかのどっちかなのかも知れません。それゆえ、地元の中学校はとても荒れていました。
なんとなく、この環境から抜け出したかったわけでもないんだけれど、目標も夢もなく、勉強ばかりしていたので、高校は県内随一の進学校に合格。
家からは遠かったのですが、高校は街にあったので、街に出られるのを嬉しく感じたものです。
ただ、これがまた地獄の始まりでした。
高校生~大学生:落ちこぼれ、汚屋敷、居場所がない
高校生:精神不安定な母からの攻撃
さて、晴れて街の高校生!
というわけにもいかず、私は入学早々に落ちこぼれてしまいました。
地方の進学校とはいえ、毎年超難関大学に多数の生徒が進学している高校。
そこには、本当の天才や秀才がたくさんいたのです。
塾にもいかず、目標もなく勉強をしていた私は、高い志をもった優秀な同級生たちに瞬く間に置いていかれました。
最近では、私のような人のことを「進学校の深海魚」と呼ぶそうです。
深海魚となってしまった私は、もう深海の底から浮上することはありませんでした。
成績は学年で下から2番目。
そして、高校に入学した頃から、私に対する母の当たりがどんどんきつくなっていきました。
母は勉強が苦手で、またどこかで自分より優秀な女性を妬んでいたのだと思います。
高校の合格発表があったその日に、母から言われた言葉は、
「おめでとう」や「よく頑張ったね」ではなく、
「お前が合格できるなんて、〇〇高校も大したことないな。」
でした。
独学で1日15時間くらい勉強して、私なりに並々ならぬ努力をした結果掴んだ合格だったのですが、母の一言ですべてを否定された気持ちになりました。
自分が勉強できないコンプレックスを抱えていた母は、私の難関高校合格が面白くないらしく、度々ヒステリックになっては、
「私だってその気になれば、お前より頭が良かったんだ!!」と怒鳴り続けられました。
私が難関高校に合格することで、母のコンプレックスを刺激してしまったようで、
それからというもの、母から投げかけられる言葉は、
- 勉強だけできてつまらない奴。
- 〇〇ちゃんに比べて、お前は勉強全然できない。
- ずる賢いばかりで、可愛くない奴。
- 目が無気力でむかつく。
- あんたに比べて弟くんは従順で可愛い
そして罵倒され続ける、無視されるといったことが続きました。
母の行動はどんどんエスカレートしていき、
・部屋を荒らされる
・私が大切にしているものを捨てられる、壊される
・ごみ箱に捨てたものを漁られる
・1週間無視は当たり前、ひどい時は食事の用意もしてくれない
(コンビニもないので死活問題です)
・ひどいときには暴力を振るわれる
ということをされるようになりました。
腐ったご飯と汚い部屋に、気力はどんどん吸い取られ・・・
当時の家はいわゆる「汚屋敷」。
家には、たくさんの「コードネームG」がいましたし、ねずみが壁の中を走ってる音が聞こえていました。
屋根裏にスズメバチが巣をつくり、毎日スズメバチと闘っていました。
人間めがけて飛んでくるGの恐怖は、いまだにトラウマですし、
素足でGを踏んでしまったこともあります・・・(泣)
猫を飼っているのに、母は掃除機をかけないので、猫の毛が舞い、
アレルギー体質の私はずっと体調が悪く、
冷蔵庫には腐って溶けた食べ物がパンパンに詰まっていて・・・
母の手料理は、味がない、硬い、火があまり通っていない料理っぽいもの。
それを母のマシンガントークを聞きながら、ぼそぼそと食べる日々。
痛んでいたり、腐ってる料理が食卓に上がることもありました。
(食卓にGがいることもありました←トラウマ)
しかし、それに文句をいうことも指摘することも許されない環境でした。
学校でも居場所がなく沈んでいた私は、
家庭でさらに追い打ちをかけられ、完全に無気力となってしまいました。
高校の間は一切勉強をしませんでしたし、たくさん学校をさぼって、繁華街で友達と遊んでばかりでした。
無気力すぎて大学に行くという選択肢を考えることもできず、親族にも大学まで出た人がいない環境だったので、この先どうしたらいいのかのイメージもつきませんでした。
先生の勧めで、余っていた指定校推薦を頂き、可もなく不可もないといったレベル感の私大に進学することになりました。
超難関大学や超有名大学に進学していく同級生に圧倒され、すっかり自暴自棄になった私は、自分の気持ちとうまく向き合うことができず、いつも誰かの悪口を言って自分の心を慰めていました。
私はそんな、とても嫌な奴でした。
大学進学、自分を見つめなおす
大学へ進学することで、下宿を始めました。
(そこは両親にとても感謝しています)
母から少し距離をとれた頃から、少しずつ気力がわいてきて、
今度こそ、落ちこぼれずしっかり授業についていこう
と思いなおしました。
大学はしっかりと単位をとり、友人にも恵まれて楽しく過ごすことができました。
しかし、下宿先への母の過干渉はやまず、アルバイト先に母が殴り込みにくる、親戚中に私の悪口をいって母への同情を誘うなどの行動に悩まされました。
携帯には、私がどれだけ非情でダメな奴かを説教する母からの長文メッセージが連日のように届き、気が狂いそうでした。
新社会人:超ワードワークからの妊娠
ハードすぎる新社会人
就職は大学からほど近い、一般企業に総合職として入社。
営業部へ配属になりました。
仕事は楽しく、人間関係にも恵まれ、仕事をすることにとても大きな喜びを感じていました。
ただとてもハードな仕事で、ひどい時は朝まで会社にいて、そのままフロアでちょっと仮眠して、そのまま出社するということも続きましたし、連続で一か月以上休みが取れないということもありました。
私のように、親や周囲の人から否定ばかりされて育った場合、なんとか自分の存在価値を出そうと、必要以上に頑張ってしまう場合があると思います。
残業代も大してもらわず、薄給でとにかく一心不乱に働き続ける、そんな生活を数年続けました。
しかし、かなりハードなスケジュールで、休みなく働き続けたところ、打ち合わせ中に突然涙が止まらなくなってしまい、そのまま一か月休職することになりました。
突然の妊娠に頭は真っ白
やりがいのある大好きな仕事でしたが、休職したことで一度完全に心が折れてしまいました。
そんな時です。妊娠がわかったのは。
相手は、当時交際して一か月しかたってない男性でした。
想定外のことで、どうしていいかわからず、当時はかなりパニックになったのを覚えています。
もともと、母が存命のうちは、結婚も出産もするつもりがありませんでした。
母からの圧力でさらに精神的に追い詰められるとわかっていたからです。
- 私も母のようになったらどうしよう
- 私が子供なんて育てられるはずがない
- 母のように子供を精神的に虐待してしまう
母のようになる恐怖心で、当時は精神的にかなり追い詰められました。
けれど、産む以外の選択肢は思いつかず、そのまま当時交際中だった現在の夫と結婚することになり、仕事は退職することにしました。
児童相談所を頼る
私が産婦人科に行った後に足を運んだのは、
児童相談所でした。
私には、病気で自分の子供を育てることができない友人がいます。
その友人が、児童相談所に子育てに関する相談をしているという話を聞いていたので、友人に紹介してもらい、私も児童相談所にいくことにしました。
それくらい精神的に追い詰められていました。
妊娠中から、児童相談所に「自分が虐待するかもしれない」と相談するケースはそんなに多くはないようです。
私はそこで、自分の生い立ち、予定外の妊娠、そして母のようになってしまう恐怖を相談員の方にお話しさせていただきました。
相談員の方は、しっかり私の話を聴いてくださった上で、私の存在も肯定してくださり、そして、今後も不安なことがあればいつでも相談を聞くからと優しく寄り添ってもらい、少し安心したことを覚えています。
子供を産んでからも、市の保健師さんに定期的に家に訪問してもらい、子育ての悩みを聞いてもらって、
なんとか自分が子供を虐待しないように、踏みとどまっているような状態でした。
ただでさえ精神的にも肉体的にも追い詰められる、新生児の育児。
仕事をすることで、さらに精神的に追い詰められるなら両立なんて無理だと、仕事をすることを諦めていました。
生活は苦しかったですが、それよりも親から受け継いだ負の連鎖を子供に引き継いでしまう恐怖心から、しばらく仕事はできずにいました。
主婦:扶養の中で働く
パートタイマーで仕事復帰
その後は、自分でもカウンセリングの勉強したり、実際にカウンセリングも受けたり、毒親関連の本もたくさん読んで、母から受けた呪縛を何とか払拭しようと必死に過ごしていました。
そのかいあってか、子育てでイライラすることはあっても、暴言を吐いたり虐待をすることはありませんでした。
関わってくださった、相談員の方、保健師の方、カウンセラーの方には今でもとても感謝しています。
そうしているうちに、少しずつ心に余裕が生まれてきました。
知り合いが経営する会社が、事務のパートを探しているということだったので、扶養の中で働かせてもらうことになりました。
もともと仕事をするのが好きだったので、この時仕事に復帰できるようになったことが、とても感慨深かったのを覚えています。
育児と収入はトレードオフ
しかし、子供が熱を出したらすぐに帰らないといけない。
それで周りに迷惑をかけてしまう、申し訳なさ。
もっと収入が欲しいと思っても、扶養の壁を意識しながら勤務時間を調整しないといけない、居たたまれなさ。
仕事が忙しくなればなるほど、子供に対して余裕のないイライラ感情を抱いてしまう、不甲斐なさ。
育児と仕事がトレードオフになってしまう現実を、痛いほど感じました。
育児ももっとしたい、仕事ももっとしたい。
けれど、私には頼れる親も、親戚もいませんでした。
夫も激務で、家のこと、育児もすべて私が一人で乗り越えなければいけませんでした。
納得はいかなくても、苦しくても、一人で乗り越えるしかなかったのです。
転職、転勤、退職・・・
一念発起して正社員に転職
やっぱり自分がやりがいのある仕事をすることは諦めきれず、日常がハードになることは承知の上で、転職活動を始めます。
ご縁あって内定を頂いた企業で、正社員として働くことになりました。
しかし、これがまたハードな仕事でした。
土曜日も勤務がある、週6勤務。
平日は毎日1~2時間の残業あり。
保育園の延長保育をフル活用して、なんとか1人で綱渡りの日々。
そして、職場も男尊女卑の空気感が色濃く残る職場でした。
- 女性だけに課される給湯室当番
- 女性だけに課されるお茶当番
- 極端に低い女性管理職の割合
- 結婚した女性社員は、仕事上で旧姓を名乗るのは禁止
(令和に入ってからもこんな状態でした。)
ある会議の場で、私は無意識に下座に座り、10歳年下の男性社員に上座を譲った時にはっとしました。
私はいつまで男性の後ろを歩かなければならないのだ、と。
同じ、もしくはそれ以上の仕事量をこなしていても、結果を出していても、頑張れば頑張るほど、自分の首を絞める結果となり、いつまでも出世できない。
そして、保育園では、外が真っ暗になる最後の最後まで残っている子供たち。
仕事で自己実現を図ろうとすると、職場で苦悩を抱えるうえに、さらには子供との時間までとれなくなるというジレンマを抱えていました。
夫の転勤で、退職せざるを得ない状況に
そんな中、夫の転勤が決まりました。
転勤先は飛行機の距離で、私はどうしても仕事を続けることができなくなりました。
ここまで苦労して、転職活動をしても、夫の都合でそれがふいになってしまう無常観を味わいました。
しかし、ただでさえ大変なワンオペ育児・・・家族バラバラで暮らす選択肢は思い浮かばず、私は退職しまた専業主婦に戻り、一家で引っ越しをしました。
育児も、仕事も、収入もすべて両立できないか
引っ越し先でも転職活動をしようと思い、ハローワークにも足しげく通ったのですが、また夫の都合でやめないといけなくなる可能性もあり、就職は諦めました。
やりがいのある仕事、収入、育児、家族との時間
それらすべてを両立できる働き方がないものか・・・
企業に勤める限り、業務内容も勤務時間も自分の裁量の範囲外にあることが多く、それなら、自分でフリーランスとして活動できないかと考えはじめました。
しかも、子供との時間、習い事の送迎、病院への送迎、いろいろと考えたときに「在宅」で仕事ができることが、一番理想の働き方ではないかと思い始めました。
起業:家族も、自分も大切にする働き方
在宅フリーランスとして起業
そこから恐る恐るSNSを通じて、お仕事募集の投稿をしはじめました。
そうすると、知り合いの会社が事務のサポートのお仕事を依頼してくださり、そこからWEBサイト更新、SNSの更新などのお仕事をいただくようになりました。
目の前の人をとにかく満足させることを意識していると、他の会社を紹介してもらえ、どんどんお仕事は増えていき、自分でも思っていなかったほど、とんとんと進むようになりました。
気付けば在宅フリーランスとして3年。
いまでは、会社員時代の月収を上回るようになりました。
しかも、業務にあてる時間は会社員時代の半分程度です。
それも、ここまでどん底を味わい、苦しんできた経験があったからこそだと思っています。
関わってくださった多くのかた、クライアントに心から感謝しています。
誰も犠牲にならない、自分らしい働き方
仕事や育児の問題をみると、家族の中の誰かが犠牲になっているケースが多々あると思います。
私は、育った家庭環境は決して居心地がいいものではなかったので、自分の子供にはなるべくつらい思いをさせたくない、と意固地になっていましたが、それでは大好きな仕事ができず自己実現がはかれないような悶々とした気持ちになっていました。
子育ても、仕事も、自己実現もすべて手に入れる働き方。
ママもパパも、子供達も家庭で幸せな時間が過ごせる関わり方、仕事の仕方、そして収入の得方がきっとあると思っています。
私は現在、さらに自分の仕事のスキルを磨くため、WEBマーケティングの勉強をしています。
このスキルを身につけることで、育児と仕事の両立に悩むママたちが、自分自身と家族の時間を大切にしながら、在宅で希望収入を得ることができると思っています。
そのための情報発信を、このブログでしていきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。